はじめに ― 星野リゾートがDXの先駆者と呼ばれる理由
日本の宿泊業界において、星野リゾートほどデジタルトランスフォーメーション(DX)を経営の中核に据えた企業は少ない。1914年に軽井沢で創業した老舗でありながら、2000年代以降は独自のテクノロジー活用で業界の常識を次々と覆してきた。
星野佳路代表は「テクノロジーの目的は効率化ではなく、おもてなしの質を高めること」と繰り返し語っている。この言葉の裏には、テクノロジーと人的サービスの両立という、宿泊業の本質的な課題に対する明確な回答がある。
本記事では、星野リゾートのDX戦略を具体的な事例とともに分析し、中小規模の旅館・ホテルが学べるポイントを整理する。「大企業だからできた」で終わらせず、自施設に応用可能なエッセンスを抽出することを目指す。
星野リゾートのDX全体像
「テクノロジーは"おもてなし"のために」という哲学
星野リゾートのDX戦略を理解するうえで最も重要なのは、その根底にある哲学だ。同社はテクノロジー導入を「コスト削減」や「省人化」の手段としてではなく、あくまで顧客体験の向上とスタッフの能力最大化のための基盤と位置づけている。
「機械にできることは機械に任せる。人間にしかできないこと ― 共感、気配り、感動の創出 ― に集中するための仕組みがテクノロジーだ」
この考え方は、DXを推進するうえでの判断軸になっている。新しいシステムを導入する際、「これはゲストとスタッフの体験をどう改善するか」という問いが常に最初に置かれる。
DX推進の組織体制 ― IT部門と現場の融合
星野リゾートのDX推進は、IT部門が一方的にシステムを導入するトップダウン型ではない。以下のような現場主導の体制が特徴的だ。
- 各施設にDX推進担当者を配置 ― 現場のオペレーションを熟知したスタッフがIT部門との橋渡し役を担う
- フラットな組織文化 ― 現場スタッフからの改善提案がシステム開発に直結する仕組み
- 外部パートナーとの協業 ― 自社開発と外部SaaS活用のバランスを取り、スピードと専門性を両立
- 定期的なテクノロジーレビュー ― 導入したシステムの効果を定量的に評価し、継続・改善・廃止を判断
総投資額と段階的な取り組み
星野リゾートのIT投資は、売上高比で約3〜5%と推定される。宿泊業界の平均(1〜2%)を大きく上回るが、一度に巨額投資を行うのではなく、段階的に投資を拡大してきた点が重要だ。
- 第1フェーズ(2000年代前半):基幹系システムの刷新、予約管理の電子化
- 第2フェーズ(2010年代):データ分析基盤の構築、マルチタスクオペレーションの導入
- 第3フェーズ(2020年代〜):AIの活用、OMO戦略の展開、サステナビリティのデジタル管理
この段階的アプローチは、中小施設にとっても参考になる。最初から完璧なシステムを目指す必要はなく、小さく始めて学びながら拡張することが、DX成功の鍵だ。
事例①:需要予測AIによるレベニューマネジメント
独自開発の需要予測システム
星野リゾートが特に力を入れているのが、AIを活用した需要予測だ。従来のレベニューマネジメントは、過去の実績データと担当者の経験に基づく属人的な判断に依存していた。同社はこれを、データドリブンな意思決定プロセスへと転換した。
独自開発の需要予測システムは、機械学習アルゴリズムを用いて将来の需要を高精度に予測する。予測精度は導入当初の約70%から、データの蓄積と学習の繰り返しにより85〜90%にまで向上したとされている。
予約データ・天気・イベント・SNSトレンドの統合分析
このシステムの特徴は、多様なデータソースを統合的に分析する点にある。
- 自社予約データ ― 過去の予約パターン、キャンセル率、リードタイム(予約から宿泊までの期間)
- 気象データ ― 天候が旅行需要に与える影響を定量化
- 地域イベント情報 ― 近隣のイベント、祭り、学校の休暇スケジュール
- SNSトレンド ― 特定エリアや施設への関心度の変化をリアルタイムで捕捉
- 競合施設の価格動向 ― OTA(オンライン旅行代理店)上の競合料金のモニタリング
これらのデータを掛け合わせることで、単なる「過去の延長線」ではない、状況変化に対応した動的な価格設定が可能になっている。
結果:稼働率と単価の同時改善
需要予測AIの導入により、星野リゾートは以下の成果を報告している。
- RevPAR(1室あたり売上高)の向上 ― 導入施設で平均10〜15%の改善
- 稼働率の安定化 ― 閑散期の稼働率を底上げしつつ、繁忙期の単価を最適化
- 属人性の排除 ― 担当者の経験に依存しない、再現性のある価格設定
- 意思決定のスピード向上 ― 市場の変化に対して数時間単位での価格調整が可能に
ポイント:需要予測AIの価値は、単に「高い値段をつける」ことではない。「適切な価格を、適切なタイミングで提示する」ことで、ゲストにとっての納得感とホテルの収益性を同時に高めることにある。
事例②:スタッフのマルチタスク化を支えるITインフラ
「1人のスタッフが複数の役割を担う」仕組み
星野リゾートの経営効率の源泉として知られるのが、マルチタスクオペレーションだ。従来の旅館・ホテルでは、フロント、客室清掃、料飲サービス、調理場といった部門ごとにスタッフが固定されていた。星野リゾートはこれを根本から見直し、1人のスタッフが複数の業務を横断的に担当する体制を構築した。
この仕組みが機能するためには、高度な情報共有システムが不可欠だ。誰が、いつ、どの業務を、どの状態で進めているかをリアルタイムに把握できなければ、マルチタスクはただの混乱を生む。
タブレット端末による情報共有システム
各スタッフに配布されたタブレット端末が、マルチタスクの「司令塔」として機能している。タブレットには以下の情報が集約されている。
- 本日の予約情報・ゲストプロファイル ― チェックイン時刻、過去の宿泊履歴、特別なリクエスト
- 客室ステータス ― 清掃状況、インスペクション完了状態がリアルタイムで更新
- タスクリスト ― 個人に割り当てられた業務と優先順位
- 館内の混雑状況 ― レストラン、大浴場、アクティビティ施設の利用状況
- 申し送り事項 ― シフト間の情報引き継ぎ
リアルタイムのタスク割り当て・進捗管理
マルチタスクシステムの中核は、動的なタスク配分エンジンだ。チェックインが集中する時間帯にはフロント業務にスタッフを多く配置し、チェックアウト後は客室清掃に人員をシフトする。こうした配置変更がシステムによって自動的に提案され、マネージャーの承認を経て実行される。
さらに、各タスクの進捗がリアルタイムで可視化されるため、遅延が発生した場合には即座にヘルプ要請やリソース再配分が行われる。
結果:人件費率の改善と従業員満足度の両立
- 人件費率の改善 ― 業界平均の30〜35%に対し、星野リゾートは約25%前後に抑えているとされる
- 従業員のスキル多様化 ― 多能工化により、スタッフ一人ひとりのキャリアの幅が広がった
- 従業員満足度の維持 ― 単なる「仕事が増えた」ではなく、ゲストとの接点が増え、やりがいにつながっているという声が多い
- 人手不足への耐性 ― 少人数でも高品質なサービスを維持できるため、採用難の影響を受けにくい
ポイント:マルチタスク化の成功は「人を減らす」ことではなく「人の力を最大化する」ことにある。ITインフラはその最大化を実現するための基盤だ。
事例③:OMO(Online Merges with Offline)戦略
OMO7大阪、OMO5東京など都市型ホテルの展開
星野リゾートが2018年から展開しているOMOブランドは、デジタルとフィジカルの融合を体現するホテルシリーズだ。「OMO」はOnline Merges with Offlineの略で、テクノロジーを活用して"街を楽しむ"体験を提供するというコンセプトを掲げている。
OMOブランドは施設の規模によって数字が異なり、フルサービス型の「OMO7」からカジュアルな「OMO3」まで展開されている。2024年時点で全国に10施設以上を運営しており、都市観光需要の取り込みに成功している。
ご近所マップ・ご近所ガイドのデジタル化
OMOブランドの最大の特徴が、「Go-KINJO」(ご近所)サービスだ。ホテル周辺のローカルな魅力をデジタルマップとスタッフ「ご近所ガイド」を通じて提供する。
- デジタルご近所マップ ― アプリ上で周辺のおすすめスポットをカテゴリ別に表示。スタッフが実際に足を運んで取材した情報が掲載されている
- ご近所ガイドツアー ― スタッフがゲストを連れて近隣を案内するウォーキングツアー。デジタルとリアルの融合そのもの
- パーソナライズされたレコメンド ― ゲストの嗜好データに基づき、おすすめスポットをカスタマイズして提案
アプリを通じた宿泊前〜滞在中〜宿泊後の体験設計
OMOの体験は宿泊の前後にまで拡張されている。
- 宿泊前 ― アプリで周辺情報を閲覧し、旅のプランを立てる。チェックインの事前手続きも完了
- 滞在中 ― アプリでGo-KINJOマップを参照、アクティビティの予約、スタッフへの質問・リクエスト
- 宿泊後 ― 訪問したスポットの記録、レビュー投稿、次回宿泊の特典案内
この一連のデジタル体験設計は、単なるホテルの宿泊を「街の体験」へと拡張し、差別化に成功している。
結果:リピート率とクロスセル率の向上
- リピート率 ― OMOブランドの顧客リピート率は、同社の他ブランドと比較しても高い水準を維持
- クロスセル ― あるOMO施設を利用したゲストが、別のOMO施設も利用するクロスブランド利用が増加
- 口コミ効果 ― Go-KINJOサービスの体験がSNSで拡散され、広告費を抑えた集客に貢献
- 地域経済との共存 ― 周辺店舗・施設への送客により地域との良好な関係を構築
事例④:環境・サステナビリティのデジタル管理
エネルギー消費のリアルタイムモニタリング
星野リゾートは「環境経営」を重要な経営方針と位置づけており、DXをその実現手段として活用している。各施設に設置されたIoTセンサーにより、電力・ガス・水道の使用量をリアルタイムで計測・可視化している。
- エリア別・時間帯別の消費分析 ― どの建物の、どの時間帯に、どのエネルギーが多く使われているかを把握
- 異常検知アラート ― 通常パターンから逸脱した消費が発生した際の自動通知
- 目標管理ダッシュボード ― 施設ごとの削減目標と実績をリアルタイムで比較表示
これらの取り組みにより、一部施設ではエネルギーコストの15〜20%削減を達成している。
食品ロスのデータ分析と削減
ビュッフェレストランや宴会場での食品ロスは、宿泊施設にとって大きなコスト要因であり環境負荷でもある。星野リゾートは食品ロスをデータで管理するシステムを導入した。
- 廃棄量の計量と記録 ― メニュー別、時間帯別の廃棄量をデータベース化
- 需要予測との連動 ― 宿泊者数の予測データをもとにした仕入れ量の最適化
- メニュー構成の改善 ― データに基づくメニューの見直しと提供量の調整
ペーパーレス化の徹底
チェックイン時の登録カード、館内案内、請求書など、従来紙で提供していた書類の電子化を推進している。タブレットでのチェックイン、デジタル館内ガイド、電子レシートなど、ゲスト接点のペーパーレス化は、環境負荷の軽減だけでなく、業務効率の向上にも大きく貢献している。
中小規模施設が学べる5つのポイント
星野リゾートの事例は示唆に富むが、「大企業だからできた」という反応も少なくない。しかし、その本質にある考え方は規模を問わず応用できる。中小施設が取り入れるべき5つのポイントを整理する。
① 大規模投資は不要:スモールスタートの発想
星野リゾート自身も、最初からすべてを一気にデジタル化したわけではない。最も効果の出やすい領域から小さく始め、成果を確認しながら拡張してきた。中小施設であれば、まずは以下のような低コスト・高効果の領域から始めることを推奨する。
- 予約管理のクラウド化 ― サイトコントローラーの導入(月額数千円〜)
- 口コミ管理ツール ― OTA上の口コミをの一元管理・返信効率化
- LINEを活用したゲストコミュニケーション ― 無料〜低コストで開始可能
② 「何をデジタル化しないか」を決める重要性
星野リゾートの成功は、「すべてをデジタル化した」からではない。「人がやるべきこと」と「機械に任せること」を明確に線引きしたからだ。
中小旅館であれば、女将の挨拶、料理の説明、お出迎えといった「人だからこそ価値がある」瞬間は徹底的に人的サービスで守り、裏方の事務作業やデータ管理をデジタル化するという判断が重要だ。
③ スタッフのITリテラシー向上が最優先投資
どんなに優れたシステムを導入しても、使いこなすのは現場のスタッフだ。星野リゾートがマルチタスクシステムを機能させている背景には、継続的な研修と、テクノロジーへの抵抗感を減らす組織文化がある。
- 週1回30分のIT勉強会から始める
- 若手スタッフをDX推進リーダーに任命し、現場目線での改善を推進
- 失敗を許容する文化 ― 新しいツールの試行錯誤を奨励する
④ データ収集を「仕組み化」する
星野リゾートの需要予測AIが機能するのは、長年にわたるデータの蓄積があるからだ。中小施設も今日からデータを貯め始めれば、将来の分析・活用の基盤になる。
- 宿泊者データ ― 年齢層、地域、予約経路、利用サービスを記録
- 売上データ ― 日別・プラン別・客室タイプ別の売上を構造化して管理
- 口コミデータ ― ポジティブ・ネガティブの傾向を定期的に分析
Excelでの管理でも構わない。大切なのは「記録する習慣」を組織に定着させることだ。
⑤ 顧客接点のデジタル化 vs 人的サービスの線引き
最後に、最も重要な判断基準を示す。
- デジタル化すべき接点 ― 予約、チェックイン手続き、請求、情報提供(館内案内、周辺情報)、アンケート
- 人的サービスを守るべき接点 ― お出迎え・お見送り、食事の提供・説明、困りごとへの対応、特別な日の演出
この線引きは施設のコンセプトによって異なる。自施設の「らしさ」を最も表現できる場面を人の手で守ることが、DX時代の競争力になる。
他の先進事例との比較
アパホテル:徹底的な省人化・コスト効率モデル
アパホテルは星野リゾートとは対照的なDX戦略をとっている。1秒チェックイン機や非対面サービスの徹底など、省人化と効率化を最優先に据えたアプローチだ。
- 自動チェックイン・チェックアウト機の全館導入
- アプリでの完全キーレス運用
- 清掃ロボットの導入による人件費削減
このモデルはビジネスホテル・都市型ホテルにおいては極めて合理的だ。宿泊を「移動の手段」と捉えるビジネス客にとって、効率化は顧客満足に直結する。
藤田観光:レガシーシステムからのDX移行
ホテル椿山荘東京やワシントンホテルを展開する藤田観光は、レガシーシステムからの脱却という多くの老舗企業が直面する課題に取り組んでいる事例として注目される。
- 基幹システムのクラウド移行 ― オンプレミスからの段階的な移行
- データの統合 ― ブランドごとに分散していた顧客データの一元化
- CRM(顧客関係管理)の高度化 ― 統合データを活用したパーソナライズされたサービスの提供
それぞれの戦略の違いと選択基準
3社のDX戦略を比較すると、自施設のポジショニングに応じた選択の重要性が浮かび上がる。
- 星野リゾート型(体験価値最大化型) ― テクノロジーを人的サービスの補完に使う。ブランド力と顧客体験を重視する施設向き
- アパホテル型(効率最大化型) ― テクノロジーで徹底的に省人化する。回転率と価格競争力を重視するビジネスホテル向き
- 藤田観光型(レガシー刷新型) ― まず既存システムの近代化から始める。歴史のある旅館・ホテルで、現行システムが足かせになっている場合に参考
どの戦略が正しいかではなく、自施設の目指す方向に合った戦略を選ぶことが重要だ。
まとめ ― DXは手段であり目的ではない
星野リゾートのDX事例を通じて見えてくるのは、テクノロジーの力そのものではなく、「何のためにテクノロジーを使うのか」という問いに対する明確な答えがある強さだ。
需要予測AIも、マルチタスクシステムも、OMO戦略も、すべて「ゲストにとっての価値を高める」「スタッフがより良い仕事をするための環境を整える」という目的に紐づいている。目的なきDXは、ただのIT投資に終わる。
中小規模の旅館・ホテルが今日から始められることをまとめる。
- 自施設の「らしさ」を言語化する ― デジタル化する部分と守る部分の線引きの基準にする
- 最も効果の出やすい1つの領域でスモールスタート ― 予約管理、口コミ対応、ゲストコミュニケーションのいずれかから
- データを貯め始める ― Excelでもよい。記録の習慣を組織に定着させる
- スタッフのITリテラシーに投資する ― 週1回30分のIT勉強会から
- 半年後に振り返る ― 効果を定量的に評価し、次のステップを検討する
DXは魔法ではない。しかし、正しい目的意識と段階的な取り組みがあれば、規模を問わず宿泊施設の競争力を確実に高める。星野リゾートの事例は、そのことを雄弁に物語っている。



